島根大学論集. 人文科学

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島根大学論集. 人文科学 13
1964-02-28 発行

ジョージ・エリオットの倫理性

冨士川 和男
ファイル
a006013h017.pdf 1.55 MB ( 限定公開 )
内容記述(抄録等)
 『アダム・ビード』 (Adam Bede, 1859)のなかで,アーウィン氏は,「私たちの行為は,それに先行するどんな動きとも関係なく,おそろしい結果をもたらすものです−決して自分だけにかぎらぬ結果を,そして,何が自分に有利な弁明要素になるだろうかと考えるのではなく,その確実性をしっかり心に据えるのが一番よいのです」 (Ch. xyii)という。ジョージ・エリオット(Georg・Eliot,1819−80)の小説について,彼女の決定論的な世界観が,物語の性格を決めているといわれる。この観念が,物語の自然な展開を妨げたと批判されることが多い。このような作品評価に直接かかわる問題は別として,とにかく決定論的な世界観が作品の前面に目立っていることは事実である。しかし,そうしたうわべにもかかわらず,彼女はこの観念の深みに,それほどはまりこんでいないのではないか,ということも予想されうる。ごく一般的に言って,決定論的な考え方は,文学の場においては,致命的な毒物になりかねぬ代物である。なぜなら,人間の行動力や尊厳性の過小評価に通じるからである。もし宇宙の動きが,なにか超絶的な力によって,厳格に決定されているとするなら,たとえば人間の責任というものも,なくなってしまう。このように,人間の自由意志なり責任の存在意義に,なんらかの価値付けをしようとするとき,決定論は論理的な困難に当面せざるをえない。ジョージ・エリオットも,人間の意志を軽視することはできなかった。また,学び成長していく能力や内奥から湧く義務感を持っていれぱこそ,人は人たりうるという実感を捨てることはできなかった。それでもなお,このように実感的に描いた人生のヴィジョンを,一番正しく解釈してくれる唯一の支柱として,決定論に頼っていったことが,ジョージ・エリオット研究において,ひとつの重要な問題を提起してくれるように思われる。