島根大学論集. 人文科学

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島根大学論集. 人文科学 13
1964-02-28 発行

為愚痴物語の中道思想

鈴木 亨
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内容記述(抄録等)
 為愚痢物語(寛文二年刊)は随筆形式の教訓物仮名草子として典型的な作品である。過渡期の啓蒙思潮の中にあって、筆の立つ知識人は争って教訓的な作品をものした観があるが、その中で最も多く用いられたのは教義問答形式とこの随筆形式である。教義問答形式は儒仏の経典以来の長い伝統を持っているし、随筆形式もまた徒然草のような恰好の古典を持っている。即ち書きたい事柄だけを持っていて、それを表現するに特別な文才を持ち合わさなかった当時の多くの作者達にとっては、この二つの形式は最も容易に模倣できるものだったと想像される。
 勿論他の形式、たとえば説話集的な形式にも倣うべき伝統はある。しかしこの形式で書くためには、説話の収集なり構成なりにやはりかなりの才能や努カが要る。その点前の二つの形式には広汎な自由があって容易である。特に随筆形式は殆ど規範めいたものはないに等しい。想が移れば章を改め、各章の長短、質の均衡にも配慮する必要はなく、飛躍、重複、回帰も何ら厭う所ではない。まだしも教義問答形式には最少限度の条件が存する。即ち問と答は明瞭に対応していなければならないし、問答の展開は或る程度段階的発展的でなければならぬ。又問者と答者との性格、才能、学識等の差は終始一貫していなければならないし、しかも問者は問答を通じて次々に啓蒙されその程度を高めて行かねばならぬ。その発展の間に、少なくとも一見して看破できるような隙を見せては失敗である。このように見て行くと、教義問答形式には或る程度の計画が必要である事がわかる。又そのように計画された構成であるからこそ、この種の作品は劇的効果を持ち易く、全体として小説的形態をとるものも多いわけである。清水物語、祇園物語等の単純なものから、二人比丘尼等の複雑なものに至るまで、その小説的構成は中に含まれている教義問答の進展に即している事が看取される。
 随筆形式は無計画に筆を進めても成る。作者の混沌たる抱懐を任意に区切ってその断片を羅列すれば足りる。これは随筆の長所でもあれば短所でもある。作者の抱懐を混沌の相のまゝ無傷に取り出すには、これにまさる手法はあるまいと思われるほどであるが、混沌の度が過ぎれば、表現された抱懐それ自身の価値を減殺する。作者の抱懐が或る激しい情熱で包まれ、一貫している場合はその危険は少ない。可笑記などはその好例である。しかし多くの場合、混沌は随筆の付き物である。為愚痴物語もまず一見した印象としてはその一般の場合にあてはまる。この作品が従来仮名草子中に於ける分類学的研究以上のものを与えられていないのも、主としてそういう理由によるものと考えられる。
 しかしこの作品は仮名草子中では相当重要な地位を占むべきものであると私は考える。右に述べたような手法の安易さが、この作品の光彩を曇らせてしまってはいるが、その内容は思いの外に新鮮であり、長い仮名草子の思想的遍歴の一つの到達点を示している。
 以下、できるだけ作者の混沌の雲を払って、その内容を整理し、作者の拘懐の実質を明らかにして見たいと思う。
NCID
AN00108183