島根大学論集. 人文科学

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島根大学論集. 人文科学 13
1964-02-28 発行

託何上人法語

河野 憲善
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内容記述(抄録等)
 写本託何上人法語一巻は時衆の遊行七代託何の法語集であり、松江市乃木善光寺に伝えられたもの、かって木版にも活字にも公刊されたことがない。このほかにも七代上人法語があり、写本法語集と遊行代々法語は託何の遺文と推定される小文を前者三、後者は二伝えているが、いずれも公刊されたことがなく、この託何上人法語の原本よりの転写が近年行われたがそれも全国に十部に充たないのではなかろうか。ただし以上あげた諸書から拙稿はしばヽ引用しており、私以外に論文にその抜抄を載せた人もまずないと見てよい。
 時衆において教学の樹立者はもとより宗祖一遍であろうが、思想と学解はその生涯の眼目ではなく、国中隅なく行脚することによって賦算化益するに寧日もなかった。したがって主著もなく、幸に二本の行状絵巻と「播州法語集」とがある。二祖他阿真教に「他阿上人法語」等数篇あり、三祖中聖智得にも小論数篇があって思想信仰の大綱はすでに決定的であるが、教線においても教学においても最も伸張期にあって功績を残したものは託何であり、またその著述である。託何は上総矢野氏、弘安八年生れ、二十四才三祖に入門、東国夷域の遊行に随逐、二祖の示寂とともに相模当麻道場に帰山、ついで元享元年京都七条道場に移錫、この頃詫阿とも称したか、勅撰集連歌集にもその名を遺している。暦応元年七条四代より遊行七代嗣法、遊行十七年文和三年七条において入寂している。その廻国は両法語の消息の宛名から西国九州の化導であったと推測される。日附の年代から推して託何上人法語が七代上人法語に先行すると思われる。前書は第一が暦応二年、後尾の方は年月の記がないが、大体年代順に配列されているように思われる。後書は最後の一文だけ文和二年九月晦日の記がある。両書は文調が一見違うように思われるが些細に検討すれば前書が臨終平生一同を強調するのに比し後書がそれを欠いているわけではない、他の著述の内容と比較して、ともに真撰であること疑ない。日本仏教全書に含まれた既刊の著書をあげる、「察州和伝要」「条々行儀法則」 「同行用心大綱註」 「仏心解」及び大著「器朴論」三巻であり、「浄業和讃」に託何作「宝蓮讃」 「荘厳讃」 「光陰讃」 「大利讃」の四篇がある。「浄業和讃」は文政八年日輪寺硯応の序のある木版三巻本である。
 時衆の教義綱格を知るには、この書は最も好適である。文は平易であり、簡にして要を得、一遍教学はこゝに面目を新にして懇説されているといい得る。 『念々即臨終なれば念々即往生なり。臨終平生は一同にして当体の一念に即便当得の往生を成ずるなり』と、当体の一念、永遠の今に落居する無縁の大慈悲を説いてやまなかったのである。
 この原本は紺表紙和紙綴、徳川中期の写本と思われる。