スターリンの死後はじめて開かれた第二十回党大会(一九五六年二月)は、ソ連邦が社会主義社会の建設をほとんど完了したために、やがて共産主義への移行を始めることを宣言して、共産主義の建設という、ソ連邦の社会発展の新しい目標を提示した。中央委員会を代表してこの報告を行つたのはフルシチョフであるが、その当時は未だフルシチョフのリーダーシップが確立していたわけではなかった。成程彼は党の第一書記の地位にはあったが、第二十回党大会が選出した中央委員会幹部会員は、スターリン在世中の第十九回党大会(一九五二年)が選出した幹部会員によって占められていたからである。スターリン時代をそのまま継承したこの党中枢部が大幅に交替し、それとともにフルシチョフを中心とする指導体制が確立するのは、五七年(六月)のモロトフ、マレンコフらのいわゆる「反党グループ結成」の事件を契機として、旧幹部会員の解任と新幹部会員の新任が行われ、ついで五八年(三月)、マレンコフ、ブルガーニンについでフルシチョフが首相の地位にもついて以後のことである。こうして党指導部の編成替えが完了して、その十ケ月後に開かれた第二十一回党大会(一九五九年一月~二月)は、共産主義建設の展開期が始まることを象徴する共産主義者の大会であり、ソ連邦の歴史の転換期として印象づけられたのである。
レーニンの死後においても、党指導部の人的構成は大きく変動した。スターリンとトロツキーとの周知の対決は、一国社会主義か永続革命かという、ソ連邦がとるべき基本的政治路線を軸として戦わされたのであり、党内における一国社会主義理論の勝利は、同時に党内におけるスターリンの指導権の確立を意味し、スターリンとその理論を中軸とする人的構成がつくられていつた。この新しい指導部は、新しい指導理論のまわりに党と国民を結集し、反党的理論とたたかいながら、社会主義の建設を実践していくことになる。
スターリンの死後においては、レーニン死後のような激しい理論的対決は表面化しなかったが、中央委員会幹部会と書記局の人的構成が変り、スターリン時代の実力者たちが結成した「反党グループ」が姿を消して、新しい指導部が確立されたのち、党大会に新しい指導理論が提示された。すなわち第二十一回党大会では共産主義建設とこれに伴う国家死滅の理論が、第二十二回党大会では全人民的国家の理論が打ち出きれ、スターリンの時代と業績とを過去のものとしてこれと一線を画することによつてその権威を払拭しながら、新しい指導部の権威を確立し、党と国民を新しい目標の下に結集しようとしたのである。
かくして社会主義国家の性格、その発展段階、全人民的国家の理論的構成、国家死滅過程の理論化などが、ソビエト政治の実践的課題によつて迫られた、現在のソビエト学界の理論的課題となつた。これらの問題のうち、国家死滅理論の発展についてはすでに論究したので、本稿は、第二十二回党大会が提起した「全人民的国家」をめぐる理論的諸問題を検討したい。