本稿では山陰地方における須恵器の変遷の大要を明かにし、また須恵器には若干の地方色のあることをも指摘し、かつやや特殊な遺物をも紹介しようと思う。それは特に所謂後期古墳において、須恵器がもつとも普遍的な遺物であるので、これによつて後期古墳の間の年代関係を明かにする上には極めて必要なことであると考えるからである。筆者が須恵器に特別の関心をもつようになつたのも専らこの理由からであつた。
昭和一八年の秋、島根県史蹟調査委員として松江附近の八ケ村の古墳調査に従事した際、当時の松江高等学校(今の島根大学)にその敷地にあつた薬師山古墳出土の一括遺物が保存されており、その中の須恵器は通常多く見かけるものとは大いに異つた形式であることを知り、須恵器の形式の変遷について組織的に考える必要を感じたのであつたが、その後昭和二二年に梅原末治博士を迎えて金崎古墳の発掘に従い、右と近似した多数の須恵器が出土し、一層関心を深くしたのであつた。実見した須恵器は能う限り実測図を作るよう心がけ、また科学研究助成金をも受けて、この方面に自分としては努力したつもりあつたが、なわ最初の目標には遠いものがあるけれども一応の輪廊を描いて後補を期したいと思う。
須恵器の編年については、すでに東方考古学叢刊「対馬」において樋口隆康氏がその大綱を示され、その後も数氏のこの方面の研究のあることを聞いているが、後文にも記すような筆者の考え方から地方的研究の必要を思いここに記すこととした。なおこの稿は、これまで自身で作つた大体出所の明かな山陰の須恵器九00個ばかりの実測図と島根大学所蔵の現品一00点ばかりを参照して考えたものである。