島根大学論集. 人文科学

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島根大学論集. 人文科学 10
1961-03-20 発行

御伽草子的仮名草子の分析

鈴木 亨
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内容記述(抄録等)
小説史を中世から近世に辿ると、御伽草子の消滅の後を追って仮名草子が登場する運びとなるが、その交替の様相はまことに興味深いものがある。仮名草子の母胎は御伽草子のみでない事はいうまでもないが、少なくとも母胎の重要な一つである事は疑いない。その場合、最も直接的にその交替の様相を窺うに都合がよいのが、ここにいう御伽草子的仮名草子である。
御伽草子的仮名草子とは、例えば「七人比丘尼」や「あだ物語」の如く、先行御伽草子中の特定の作品の構想・内容を踏襲した事が明らかなものから、単に発想が御伽草子と類似しているという程度のものまで含めて考えてよいが、特に前者の類が、右の目的の考察には好対象となる事、勿論である。
こういう作品はどうしても亜流の印象を伴うので、不備ながらも新傾向の作品がどしどし出始めた近世小説の黎明期に於いては、立場の不利を免れず、進歩的意義に之しい中間的作品として軽視される事が多い。しかし、これらの作品の作者自身には、亜流の意識はない。彼らの意図は、古い作品をより良き物に改作する事であり、当時の時代感覚に於いて、より一層の充実を期する事であった。その意図に関する限りは、充分に進歩的であったと思われるのである。
然るに出来上がった作品は、一見旧態依然たる形態で、而も先行作品の情調的統一を失った索然たる出来ばえである。一種名状し難い混乱が全篇の印象を破壊している。これでは亜流の問題を別にしても、高い評価を要求する事は無理だと思われる。
勿論これは現代の我々の感想である事を認めねばならない。当時に於いては、これらの作品は、作者と読者にとってどのような意義を持つものであったのか。叉、そのような意義と、このような過渡的作品の形態との間には、どのような関係があったのか。本稿はここに一つの分析を試みて、その間の事情を考察しようとするものである。