「子どもの生活は遊戯の生活である」とか,「遊びは子どもの最も純粋な精神的所産である」とかいわれているように,子どもの生活の中で遊びの占める意味は大である。しかしながら,子どもの生活で勉強を優位に置き,遊びを二次的なものとみなす考え方は,19世紀から今日までの社会的通念であった。
マッキントッシュ(P.C.Mclntosh)も「成人の一部におけるスポーツの嫌悪は,疑いもなく,彼らの児童期や青年期における体育の中で遊戯的要素の欠如に起源をもつものである」と述べている。わが国においても,体育は身体の発達や鍛練の側面を重視し,遊戯的要素についての配慮は乏しかった。
たしかに,生産を生存の基礎におく社会的傾向のなかで,遊びに高い価値を与えることは危険だと考えたのは当然のことであろう。しかしながら,このような傾向は変わりつつある。有閑階級の時代から大衆的余暇の時代へ,勤労の倫理から遊びの倫理への転換が現実化している。勉強や仕事の領域の研究と同時に,遊びの領域についての研究の重要さも加わってきた。
ここでは,ヨハン・ホイジンカ(Johan Huizinga)やロジエ・カイヨワ(Roger Caillois)の遊戯的要素を手がかりに,農村における子どもの遊びを検討してみる。