明治の前期,文明開化の波にのって,封建的な女性観が打ち破られ,明治5年の「学制」によって,男女が小学校に入学する。また,フェリス女学院(明3),神戸女学院(明8),共立女学校(明8)など女子校は次々に建てられ,私学の創立は,今日の女性の教育に少なからぬ役割を果たしている。
明治4年に,はやくもアメリカ大陸におくられた女子留学生は,後に,津田塾大学(明33)の創始者(津田梅子)となる。
一方,お茶の水女子大学の創立は,明治7年,東京師範学校の女子部となったのは明治18年,明治30年代になって,女子の高等教育が普及しはじめる。
このような官学の充実と,一方に独自の校風を確立していった私学の抬頭は,明治期の教育史に注目されるところである。この頃,東京女子大学(明33),女子美術大学(明33),日本女子大学(明34)等が次々に創立され,明治42年には,奈良女子大学も創立された。
大正期に入って,デモクラシー思想の中で,聖心女子大学(大正4),昭和女子大学(大正9),杉野女子大学(大正15)と,私学の創設がつづく。
「私学」として,建学の精神に,自由の風を導入できる学校教育の中で,「舞踊」について着目した私学はなかったのであろうか。
このように考える時,玉川学園の存在を知り,その実践の内容や,背景にある教育思想に興味を覚えた。
玉川学園は,大正新教育運動の嵐の中で,昭和4年に,小原國芳によって創設された私学であり,「全人教育」を理念としている。この玉川学園の「全人教育」の理念の中で,舞踊は,どのような位置を占め,どのような価値を見出されて,今日に至ったのであろうか−。その論と舞踊教育の実践を明らかにし,今後の,教育と舞踊の在り方を検討する一助としたいと考えた。