| ファイル情報(添付) | |
| タイトル | 作品論「ハワーズ・エンド邸」 | 
| タイトル 読み | サクヒンロン ハワーズ エンド テイ | 
| 著者 | 
                                    冨士川 和男
                                    
                         | 
| 収録物名 | 島根大学論集. 人文科学 | 
| 巻 | 12 | 
| 開始ページ | (1) | 
| 終了ページ | (11) | 
| 収録物識別子 | ISSN 04886518 | 
| 内容記述 | 抄録・要旨 E.M.フォースター(Edward Morgan Forster,1879一)は,相対立するものの間に横たわる溝に,強い視線を送りつつ考える作家である。たとえば,それは見えるものと見えないもの,現実と理想,肉体と精神といった類の対立である。そして、彼の場合,これらの対立する原理は,本質的に,メタフィジカルな対立をなしている。小説がメタフィジカルな性格を帯びるとき,それはそこで望まれている和解がアクションの意味を規定するのに役立つ,対立的な原理の形で提出されることが多い。『ハワーズ・エント邸』(Howards End;1910)も,こうした種類の小説である。 ここでは,作者の窮極的な問いは,「経験のリアリティは,どこにあるのか」である。それは,ヘレン・シュレーゲル(Helen Schlegel)が言うように,「個人関係の内面生活」にあるのか,あるいぽマーガレット・シュレーゲル(Margaret)がやがて信じるように,「実際的な事柄の外面生活」のなかに,求むべきなのだろうか。いずれにせよ,それは魂なり肉体なりの働きを通して,いかにすれば知られうるのか。また,たとえ知りえたとしても,この現実のなかで,それは耐えることのできるものなのだろうか。なぜならば,この現実のなかでは,永遠の安定も,時間と変化の力によって,条件付けられさるをえないからである。とにかく,この設問への答え,しかも唯一の答は,作品のタイトル・ぺ一ジに掲げられた,「ただ結合せよ」という言葉のなかに,こめられているのであろう。結合されねばならぬものは,知性と精神による内面生活と。肉体的感覚的な外面生活とである。これらは,経験の相対立する二つの半分であって,和解されねばならないと,作者は考えているのだ。 | 
| 言語 | 日本語 | 
| 資源タイプ | 紀要論文 | 
| 出版者 | 島根大学 Shimane University | 
| 発行日 | 1962-12-20 | 
| アクセス権 | アクセス制限あり | 
| 関連情報 | 
                                    [NCID]
                                    AN00108183
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