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島根大学論集. 人文科学 11 巻
1962-03-01 発行
本居宣長の藤原為兼評 : 近世に於ける藤原為兼評
小原 幹雄
本文ファイル
a006011h005.pdf
( 1.44 MB )
内容記述
本稿は近世に於ける藤原為兼評の一部である。
近世に於ける藤原為兼評は、近世に於いて、藤原為兼がどのように評せられていたか、即ちどのように受け取られ、理解されていたかを見てみたいのがその目的である。
近世に於けるその受け取り方の態度の一般的特色を見ると、為兼の論評に当っては、為兼だけを評するのではなくて、彼の撰になる「玉葉集」を離れることがでぎず、また同じ京極派の「風雅集」を別にすることばできなかった。為兼をも両集をも区別せず、同一の見方で論じているのである。為兼を論ずることは、「玉葉集」・「風雅集」を論ずることであり、「玉葉集」・「風雅集」を評することは、為兼を評することであった。
そういうわけであるので、為兼評と題したのであるが、為兼について述べながらも、おのずから.「玉葉集」評にも「風雅集」評にもわたらねばならないのは、止むを得ないのである。
本居宣長の場合も、その例外ではない。
近世に於ける藤原為兼評は、近世に於いて、藤原為兼がどのように評せられていたか、即ちどのように受け取られ、理解されていたかを見てみたいのがその目的である。
近世に於けるその受け取り方の態度の一般的特色を見ると、為兼の論評に当っては、為兼だけを評するのではなくて、彼の撰になる「玉葉集」を離れることがでぎず、また同じ京極派の「風雅集」を別にすることばできなかった。為兼をも両集をも区別せず、同一の見方で論じているのである。為兼を論ずることは、「玉葉集」・「風雅集」を論ずることであり、「玉葉集」・「風雅集」を評することは、為兼を評することであった。
そういうわけであるので、為兼評と題したのであるが、為兼について述べながらも、おのずから.「玉葉集」評にも「風雅集」評にもわたらねばならないのは、止むを得ないのである。
本居宣長の場合も、その例外ではない。
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