こに紹介・翻刻するのは、北尾次郎の従兄弟であった桑原羊次郎(号 雙蛙)が書き残し、松江の松村家に保存されてきた北尾次郎に関する手原稿の一部である。原稿に印刷上の書き込みが全く見られないことから、松村鍈豊の個人的依頼により羊次郎が執筆し、手稿のまま松村家に伝えられてきたものと思われる。全体は四部から構成されている。すなわち、「北尾先生の思出」「北尾次郎博士の逸話」「北尾留枝子君に就き」「松村寛裕翁夫妻と鍈子女史」の四部である。このうち「北尾次郎博士の逸話」以降の原稿には通し番号が打たれており、羊次郎によって一連のものと考えられていたことがわかる。したがって本稿では、第一章「北尾次郎博士の逸話」をそのまま原稿全体のタイトルとみなすこととした。今回は特に次郎と関連の深い前半二章のみを翻刻し、第三章「松村寛裕翁夫妻と鍈子女史」は翻刻対象からは除いた。
また、「北尾先生の思出」の原稿も羊次郎の手によるもので、「逸話」冒頭の記述とは齟齬するが、米田が提供した資料をもとに、その「追憶」を羊次郎が整理、浄書したと考えられる。「思出」全体の十五枚と「逸話」の十三枚目までは、「三〇〇字詰 東京市麹町區富士見町ニノ八 雄山閣原稿用紙」を使用しているが、十四枚目以降は「雙蛙亭原稿用紙 三九〇字詰」が使われている。このことから、まず「思出」を原稿化した後、羊次郎が自らの執筆に取りかかった成立の経緯が明らかとなる。しかしながら今回の翻刻では、「思出」を米田稔述『北尾先生の思出』として、『逸話』の後に付録として収録することとした。
著者の桑原羊次郎は、「桑原文庫」により島根大学ともゆかりの深い人物である。明治元年に現在の松江市末次本町に生まれ、中学卒業後上京し、明治二十二年東京神田英吉利法律学校(中央大学の前身)を卒業した後、ミシガン大学に留学し、Master of Lawsの学位を得た。明治二十八年には松江電燈会社を創立し、大正九年には衆議院議員に選出されるなど、地域の振興に大きく貢献した。また、山陰盲唖保護会理事長、私立松江盲唖学校長などを歴任、先駆的社会福祉事業家としても活躍した。さらには、浮世絵、彫金などの美術工芸の研究家としても一家をなし、『逸話」にも述べられているように、明治末には渡欧し、各国の博覧会などで日本美術の紹介にも力を尽くした。『思出』末尾の日付などから、昭和十五年頃と推定される『逸話』執筆時には、羊次郎はすでに七〇歳を越えていたが、なお長生し、昭和三〇年に米寿の生涯を全うした。美術工芸、郷土に関する著書も多く、『桑原文庫目録』には「桑原羊次郎氏著述目録」が作成、掲載されている。