島大言語文化 : 島根大学法文学部紀要. 言語文化学科編

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島大言語文化 : 島根大学法文学部紀要. 言語文化学科編 6
1998-12-25 発行

ヴィルヘルム・ボーデとセルフ・イメージの問題

Wilhelm von Bode and the problem of 'self-image'
秋庭 史典 芸術学研究室
ファイル
a007006h004.pdf 5.41 MB ( 限定公開 )
内容記述(抄録等)
作品を作者という一個人の所有物にしてしまい、固定した不動の地位を与える。そうしておいて、見る側は「作者の意図」を正しく理解しようとする。これを美術鑑賞であるというなら、本論はそれをひとまず括弧に入れる。作品たちは、見る側により様々に解釈され、同じレンブラントの絵画が、あるときはゲルマン精神の代弁者となることもあれば、ユダヤとドイツ共有の歴史物語の可能性の根拠と見なされたりもする。彼らが「レンブラント」ということばを用いるとき、それはもはや一個人ではなく、見る側がそこに読みとろうとする意識の集合体であるかのようだ。見る側の欲望がレンブラントに投影され、そこからレンブラントのイメージが引き出されてくる。と同時に、レンブラントはそのイメージに保証を与え、投射されるイメージの根拠となる。本論で取り上げる人物、ボーデ、ラングベーン、リーバーマン、彼らはすべて自らのレンブラント像を真であるとしようと奮闘してきた人たちだということになる。もちろん、ここにもうひとつの要因、ここで語っているわたしが関わってくる。レンブラント、という名前が彼らによって争われているように見せているのはこのわたしであり、同じことは本来、ボーデ、ラングベーンそれぞれの名前についても言えるはずだからである。したがって、ここでわたしがレンブラントの名の下に彼らのテクストを集めるわけを説明しなければならないだろう。それは、それぞれによく知られていながら孤立しているテクスト相互を(ヴィルヘルム・ボーデを軸に)関連づけて、漠然とドイツ的だとかユダヤ的だとかいう大雑把な名称に組み入れられて放置されてきた数多くのことばに、別の意味連関を与えるというささやかな目的のためである。
以下の論述では、様々な対象に向けられた複数のテクストを用いるが、その使用に際しては、次のことが念頭におかれている。すなわち、或る対象に向けられたテクストは、その中に当時の社会(もちろん単一ではない)とその社会によって可能になる知覚の諸形態を含んでいると同時に、その社会的知覚の諸形態に当の対象が何をしたかを同時に語るものとみなす、という考え方である。この対象が或る作品を指す場合も同様である。前提となる(書き手にとっては自明な)社会的知覚の形態というひとつの鏡と、その社会的知覚の形態に作用を及ぼすもうひとつの鏡としての作品、このふたつの鏡が混在するのがテクストなのであり、そこで形式主義的見方と反映論的な見方を分けることはそもそも不可能である、という立場を採る。いずれにしてもここでの分析はローティの言う「表象主義」に留まることになるだろう。