ここに村落の古墳を取り上げたのは、古墳時代における村落社会の状態を推考する一つの手がかりとして役立つであろうと考えるからである。古墳時代における村落とは如何なる規模と内容をもつものであるかということ自体が問題であり、そうしたことも考古学の立場としては、古墳の様相そのものから検討すべきことであるが、今はしばらくそのことはさておいて、律令制時代の郷乃至里を念頭において当時の村落社会の存在を想定し、その村落の構成員の中の相当多数の者の墳墓を以て、ここでは「村落古墳」として取扱うこととする。律令制下における郷里は行政上の便宜から或る程度人為的に編威されたものと考えざるを得ないのであるが、しかも一方そうした編成も自然村落的なものと全く無関係に行われたとも考えられぬので、一先ずそうした程度の地域を古墳時代の村落範囲に近いものとし仮にその目安としても大した不都合はあるまいと思う。出雲国風土記によると凡そ三里平均を以て一郷をなすのであるが、これを戦前即ち近年の合併以前の町村区割と比較すると、郡別にかなり差があつて、一郷が一ケ村強に当る郡もあるが、概して云えば凡そニケ村内外で一郷に該当する割合となつている。これらのことを考えると、戦前の各町村区域内にそれぞれ相似た規模内容を以て存在する古墳というものは、ここに取り扱わうとする村落古墳の規格に適合するものと云うことが出来る。
さて本稿においては、右の如き意味の村落古墳というものがあまねく各地に存在するという事実、その村落古墳の発生、盛行、終末の様相、若干の地域的相違等について一応の見通しをしようとするものであつて、これは村落社会の展開についてより厳密な検討をするための一つの準備作業のつもりである。これについてここで使用する資料は主に出雲地方のものであるが、これは他よりは比較的詳細な資料を手もとにもつているために外ならない。なお出雲地方の村落古墳としては数の上で横穴が大多数を占める実情にある。