島根大学教育学部紀要. 人文・社会科学

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島根大学教育学部紀要. 人文・社会科学 29
1995-12 発行

マーシャル経済学の経済主体 : 改善行為と「埋め込まれた習慣」

Men in the Economics of Marshall : Improvement Behaviour and Embedded Custom
藤井 賢治
ファイル
内容記述(抄録等)
1.はじめに
 経済学の初学者を惑わせることの一つに、経済人の仮定がある。経済人は、社会的諸関係からは独立して、自らの選好に基づいて合理的な選択を行う主体として規定される。経済人は経験から抽出された人間ではなく、精密科学としての経済学を構築するために必要とされる方法論的仮説であると説明されて、直ちに了解できる人は、現代経済学を学ぶ素養に恵まれている。経済人を前に速巡しているようでは、形式論理で組み上げられた理論体系の先端に行くつくことはできない。経済人について思いまどうことは、必然的に経済学のあり方を問うことにつながるのであり、一編の短文で成し得ることではない。本稿は、マーシャル経済学における経済主体が、スタンダードとされている経済人と比較してどのように異なるのかに焦点を定めて論を進める。
 経済学は、他の多くの学問分野と同様、力学的アナロジーを出発点として精密科学化を指向する仕方で、制度化の道を歩んできた。この流れの中で、マーシャル経済学は均衡論的枠組みに合わせて刈り込まれてしまった。筆者のここ数年来の関心しは、マーシャルの有機的成長論を正しく理解するためには、要素還元主義的な生産力観ではなく、産業組織論的生産力観を前提とする必要があるのではないかというところにあった。現在の主流派経済学の方法論的特徴である要素還元主義は、生産力把握においてだけ関連を持つのではない。経済主体の要素還元主義的扱い(=方法論的個人主義)が、経済人概念を生み出している。だとすると、力学的アナロジーに代えて生物学的アナロジーを指向する思考法は、生産力の有機的把握にとどまらず、経済主体の把握においても違いを生み出しているはずである。既存の研究は、マーシャルにおける企業者の役割を指摘するにとどまっているが、本稿は、マーシャルの経済主体が、経済主体一般のレベルで通常の経済人とは異なると主張する。
 本稿の論点は、次の2点である。第1点は、マーシャルの経済主体は、知識・組織の不完全性を短期的には与件と見なしながらも、長期的にはこれらの不完全性を克服すべく改善行為に従事する主体として措定されているとし、うことである。第2点は、改善行為は自然的あるし、は本能的なものとして仮定されているわけではなく、経済主体に「埋め込まれた習慣」しだいであると考えられているということである。