島根大学教育学部附属中学校研究紀要

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島根大学教育学部附属中学校研究紀要 35
1993-04-30 発行

『日本教育史資料』所収「旧松江藩医学校」の記述検討(前編) : 藩医の登用からみた医学教授山本逸記の評価を中心として

梶谷 光弘
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内容記述(抄録等)
日本教育史資料研究会が昭和53年から実施している「日本近世教育の基礎資料に関する総合的研究」のねらいは、『日本教育史資料』の史料的価値を認めながらもその史料的限界を明らかにしようというものである。そして、その研究内容としては、
 1.『日本教育史資料』の成立過程の究明
 2.『日本教育史資料』の分折−藩別、府県別、項目別等による分析
 3.『日本教育史資料』と地方教育史等に収載された藩校関係資料との比較検討
 4.近世日本教育史関係新資料の所在調査と収集
の4つの柱が示されている。
 私は、以前、松江藩について『府県史料(内閣文庫所蔵)』との比較を試み、『日本教育史資科二』における旧松江藩の記述がそれとほぼ一致していることを突きとめた。しかし、医学関係については、明治3年10月23日の「医術ノ規則ヲ改メ有禄無禄ノ医人一般へ諭達ス。(以下省略)」の部分、明治2年9月4日の「松江横浜町へ仮病院ヲ建設シ管内一般布達スル。左ノ如シ。仮病院大意。(以下省略)」(記載されている順序に従う)の部分が完全に除外されていることから、「『日本教育史資料』は医学に疎い藩校修道館関係者によって書かれ、医学部分については別の資料をもとにして記述されただろう。」と推測するに留まった。その後、医学校関係の史料を求め、島根大学附属図書館、日赤附属図書館、島根県立図書館、松江北高等学校附属図書館などを捜したが、松江藩の漢医学校「存済館」や「医学校」に関するものは蔵書印がおされた一部の書籍類しか見つけることができなかった。一方、『日本教育史資料二』には「校名、初メ存済館卜称シ後組織ヲ改メ医学校ト称ス。校舎所在地……。沿革要略、存済館ハ初メ旧藩主松平治郷不昧卜号ス医学教授漢法ノ為メ山本逸記ヲ聘スル時賜リシ書院ナリ藩士今村佐右衛門元宅地文化三年初メテ存済館ノ称ヲ得タリ山本逸記行事ニ詳ナリ。……。」、『日本教育史資料五』には「山本逸記……享和二年(1802)、松江藩主松平治郷ニ贈セラレ、優礼ヲ以テ待遇セラル。同四年(1804)二月、遂二当藩二禄仕シテ弍拾人俸ヲ受け、表医師ニ列シ、居宅ヲ賜ハル。因テ之ヲ書院トシ教授ス。……」という文章が厳然と書かれており、松江藩の医学界は山本逸記がもっとも重要な役割を果たしたような書きぶりである。ところが、松江藩の「列士録」「同新番組抜取帳」「同断絶帳」「新番組列士録(マイクロ)」、さらに現存する「御給帳」を読むうちに次のことが判明した。
 ①松平治郷の治世中だけをとってみても、彼が招へいした医者は山本逸記の他に、大阪の林一烏、京都の畑柳安・柳啓、荻野典薬大允、江戸公儀御医余吾良仙らがいたこと。ただ山本逸記だけがそのまま禄士し、畑柳安と荻野典薬大允の場合は彼らの弟子が代わって松江藩に登用されたこと。
 ②山本逸記の登用以前にも、それ以降にもたくさんの藩医がいたこと。彼らも自宅で門人教育を行っていたこと。
 ③山本逸記の職名は「御医師並」「且又医学教授」であり、「御医師」ではなかったこと。「御医師」となったのは3代目山本泰渕であり、それは「医学教授懸令出精御医師被仰付」という理由からであったこと。
 ④「存済館」という名称は山本逸記の「列士録」には記載がなく、2代目安良、3代目泰渕両人とも「医学館」に関わっていたこと。さらに「存済館」という名称は「列士録」では天保年間から見られ、「医学館」と併存していたこと。
 ⑤存済館を命名したはずの「典薬」とは荻野典薬大允であろうが、彼が来雲したのは寛政5・9・10年の3度であり、時期的にみて、山本逸記が招へいされる以前であり、命名などできるはずがないこと。その他の「典薬」の来雲もないこと。
 そこには松平治郷が山本逸記を優礼待遇した気配はみられず、彼に関する評価が江戸時代当時と『日本教育史資料』の記述では大きく異なっていることに気づいた。とくに『日本教育史資料』の編纂命令が「医学校通則」の発令直後であった理由から、当時主流になっていた近代医学の立場から山本逸記、北尾徳庵、田代嚮平ら3人を過大に評価し、他の藩医はすべて除外し、後世にはあえて伝えなかったのではないか、という仮説が成り立ったのである。
 そこで、本稿では藩医登用の側面から松江藩医学界を概観し、そのなかで山本逸記の登用と、当時の山本家の立場を明らかにすることを目的とする。そして、『日本教育史資料』の記述が明治15年(1882)5月27日の「医学校通則」から明治7年(1874)8月18日の「医制」、さらに江戸時代へとさかのぼり、そうした新政府の新しい考え方にあうようにかいざんされて提出されていたことを証明し、その成立過程について論じていく。その方法としては、これまで使われてきた「「旧藩教育沿革史」やその控、草稿、典拠資料、編さん関係行政文書」ではなく、「列士録」、「御給帳」、さらに地方文書といった傍証資料を利用し、「外延」からのアプローチを試みたい。
 なお、「御給帳」に記載されている藩医がすべて「列士録」等に記載されてはいないが、「列士録」等を中心にして履歴がわかる者だけを本稿では述べていく。また、紙幅の関係上、その前編のみを掲載する。