G.シェファードはその著「農産物流通論」において,「農産物流通の領域は生産に始まって消費にいたるまでである」といっている.その理由として,農家がその生産物をいくらで売れるのか,どこに,どういう方法で売るのかを考えずして生産することはできないからであるとしている.すなわち,流通を価値実現の場であるとするならば,価値実現の具体的な方法を抜きにして生産を行なうことの不合理性を指摘しているのである.いかにもプラグマティズムに立脚したアメリカ合衆国におけるマーケティング論の本領を発揮した考え方である.
なるほど,生産なるものを,物的・技術的にものをつくるということに限定するかぎり,その生産にはすでに価値を実現しようとする目的意識は与えられていないのであるから,もはや経済学以前のものとなって,価値を実現する過程を意味するなんらかのものに含めてしまって,少しも矛盾は生じないであろう.
しかしながら,自給自足の原始経済を別にするならば,生産とはそれに用いられる生産要素の価値を実現して所得を獲得しようとする一連の経済行為なのであり,もしなんらかの生産物がその生産に用いられる生産要素のなにほどか−−それがプラスにせよマイナスにせよ−−の価値を実現しないならば,それはもはや生産でもなければ,生産物でもない.技術的な生産行程の途中で枯死してしまったたとえば野菜は生産物ではなく,その野菜作は経済学的な意味における生産ではない.
このことからするならば,シェファードのするような,流通の領域に生産を含ましめることは,いわゆる流通の重要性を強調するための便宜的な取り扱いとしては是認できるところではあっても,生産と流通との正しい位置づけとはなしがたいのである.もともとが一連の経済行為であるものを,生産と流通とに分けて,それをふたたびどちらかにまとめて呼ぼうとするならば,むしろ流通こそが生産の中に含められるべきである.なぜならば,一口にいわゆる流通と呼ばれる行程も,実はこれを分解するならば,その一つ一つが,たとえば農産物についていうと,ものを集荷し,選別し,包装し,加工し,貯蔵し,輸送するという生産行程そのものである.いわゆる流通と呼ばれる行程の中で,厳密に生産と区別されるものがあるとすれば,それは取引行程のみである.この取引においてこそ,生産物の価格が,したがって生産要素の価値が最終的に決定され,利潤の大きさがきまるのである.
本稿は,いわゆる流通と呼ばれる行程の中で,生産一般に適用される基本的な原則がどの程度に適用されるものか,この問題を検討するために,最近大きく変貌する農産物流通の中にあって,その重要なにない手として活動している農協=その群としての組織である農協系統組織をとりあげ,それがわが国資本主義経済発展の中でどのような流通機能を果たしているものか,そしてその結果が農業生産力の発展にどのような形でふれているのか−−要するに流通行程における生産関係が生産力をどう規定しているのか,この問題を検討することによって,同時に流通を位置づけようとする試論である.