Memoirs of the Faculty of Education. Literature and Social science

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Memoirs of the Faculty of Education. Literature and Social science 20
1986-12-25 発行

はずかしがりやであること : 青年期の自我の一様想として

Being Shy : As an Aspect of Ego in Adolescence
Tsutsumi, Masao
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 児童期にあっては,「自分が自分であること」は疑うことさえあり得ない自明性の中にある。しかし,この自己の自明性を支える中核たる身体は,思春期を迎えて一挙に叛乱する。きのうまでの自己の身体は,今日はもはや同じものではなくなる。身体の奥底から突きあげてくる衝動も,身体を通して他者から見られる自己の像も,いずれもこれまでの自己とは異なった形で体験されようになる。対自的自己も対他的自己も,共にこれまでの自明性を喪失して,不明なものとなるのである。
 自我にとって最初の危機を,幼児期の「見捨てられる不安」と「呑み込まれる不安」のうちに見るならば,第2の危機は,青年期のこの「見る自己」と「見られる自己」の同一性の同時的喪失に伴って,統一性を失い,分裂し拡散していく自己への不安に見ることができる。自己に覚醒した青年ナルシスにとって,この危機から自分を守る途は次の3つである。1つは「見る自己」にしがみつき,「見られる自己」を否認,拒否,場合によっては抹殺することによって自閉的な世界に生きること。いま1つは「見られる自己」にとらわれて,「自分が自分であること」総体を他者に委ね専ら対他存在として生きること。そして最後の1つは,「見る自己」にも「見られる自己」にも救いを見出せず,ただただこの2つの間を漂い生きること。
 第1の途が分裂病的な世界へ,第2の途が躁うつ病的な世界へと向うとするならば,第3の途は対人恐怖病的な世界へとたどりつく。そして多くの青年はこの第3の途,内沼(1983)流に言えば,我執と没我の二重性を,自己と他者の「間」を,即ち「羞恥」を生きるのである。