この小論の意図は,聖徳太子によって制定せられたと伝えられる憲法十七条に盛られている思想が,当時の社会的現実,即ち当時の経済的状態や社会組織に対して,そしてまた国際状況に対して,どのように照応していたかを考察することである。
憲法十七条が推古朝の12年すなわちA.D.604年4月3日に聖徳太子によって制定せられたというのは,日本書紀の記録に基づいている。ところがこの書紀の記録は信用できないという説もある。その理由のうちで最も尤もらしいのは,憲法の内容の中には,大化の改新が行なわれた後に憲法が制定せられたとする方が自然であると思われるところがあるからというのである。若しこの説が正しいとするならば,大化の新政はA.D.645に着手されているから,憲法制定は書紀の記録による年よりも41年以上後になる。しかし私はこの制定の時期の確定の問題は専門の歴史学者に委せることにしたい。というのは,このような問題については,専門外の私のよくするところではないし,また憲法制定と大化改新とのいずれが先であるかということは,私の当面の問題にとって,あまり大きな意味をもたないからである。憲法十七条の思想と大化改新のもとになっている思想とは,若干の相違はあるが,大体において同じであるからである。そしてこのような憲法十七条の思想と大化改新の基本的思想とが大体において同じであったということは,当面の私の課題に答えるための便宜な手がかりを与えてくれる。というのは,大化改新は社会的現実の側に強く喰い入る社会制度叉は政治制度の改新であったから,この事件を手がかりとして,当時の社会的現実を読みとることができるかも知れないし,そうして読みとられた社会的現実に対して,大化改新の根本思想ひいては憲法十七条の思想が,どのように照応するかが明らかになされうるかも知れないからである。