タイトルヨミ | F.シューベルト ノ ウツクシキ スイシャヤ ノ ムスメ サクヒン25 エンソウ ニ カンスル ショモンダイ
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日本語以外のタイトル | Die schone Mullerin von F.Schubert op.25 : Probleme uber die Auffuhrung
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ファイル | |
言語 |
日本語
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著者 |
吉田 功
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内容記述(抄録等) | 歌曲集「冬の旅」op.89と共に,歌曲集「美しき水車屋の娘」op.25は,シューベルトの歌曲作品のみではなく,ドイツ歌曲史のなかでも特に大きな位置を占めている。この二つの歌曲集は,べ一トーヴェンがすでに個々のリートをまとめて包括的な叙事的叙情的全体を作り出すという考えのもとに,歌曲集「遥かなる恋人によす」でその原型を作り上げていた「連作歌曲集」の形をとっている。恋する男の感情を語る抒情的な歌曲群を切れ目なく通作的に繋げたべ一トーヴェンに対して,シューベルトは個々のリートを独立した作品として存在させた。そのことによって,聞き手に曲間に生ずるそれぞれの出来事を予感させ,リートによる小説の形式を一連の抒情的契機によって暗示される物語りとして創造したのであった。一方この連作歌曲集を好んで取り上げ,それをライフワークとしたリート歌手にはゲルハルト・ヒッシュをはじめフリッツ・ヴンダーリッヒ,ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウ,ヘルマン・プライ,ぺ一ター・シュライアー等の比較的声域の高い男性歌手達をあげることが出来る。バス歌手や女性の歌手がこの連作歌曲集の中から一部を取り出してプログラムにのせることがあっても,全曲を通して演奏するということはされていない。前述したヒッシュやヴンダーリッヒに於いては彼らの残した録音でしかその演奏に接することは出来ないが,時代的に未熟な技術の中で録音したヒッシュの場合は別として(当時は録音可能な時間が固定されていたので演奏に関するテンポの設定は演奏者の自由にならなかった),ヴンダーリツヒやその他の演奏者の場合は録音技術も進み演奏者の意志を十分に再現可能な状態になったので,その録音から演奏者の解釈を十分に把握することは出来る。このような技術的発達によって,演奏という音楽芸術の中における空間的要素が録音によっても容易に接することができる。さらに筆者はヴンダーリッヒ以外の上述の演奏者の「水車屋の娘」の生の演奏に接している。以上をもとにして本稿は1823年シューベルトが26歳のときに書き上げた連作歌曲集「水車屋の娘」op.25を連続して演奏する場合に,演奏者側から見た演奏に関する諸問題の一考察である。
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掲載誌名 |
島根大学教育学部紀要. 人文・社会科学
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巻 | 22
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号 | 2
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開始ページ | 33
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終了ページ | 42
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ISSN | 02872501
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発行日 | 1988-12-26
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NCID | AN00107952
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出版者 | 島根大学教育学部
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出版者別表記 | The Faculty of Education Shimane University
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資料タイプ |
紀要論文
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部局 |
教育学部
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他の一覧 |