タイトルヨミ | ホウガンナゲ ノ ガクシュウ シドウ ニ カンスル ケンキュウ ホウガンナゲ ノ ドウサ ブンセキ
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日本語以外のタイトル | A Study on Teaching Methods in Shot Put : Motion Analysis of Shot Put
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ファイル | |
言語 |
日本語
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著者 |
斎藤 重徳
渡辺 悦男
大谷 和壽
植野 淳一
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内容記述(抄録等) | 砲丸投の歴史はかなり古く,紀元前1829年頃スコットランドあたりで石投げとして行われていた,という記録が残っている。日本では,明治16年(1883),F.W.ストレンジが主宰して開催された東京大学運動会のプログラムに砲丸投が種目として記載されている。この時の砲丸の重さは記録にないが,明治18年(1885)の同運動会の競技種目(記録には競技番付と記載されている)に大砲玉抛げ方(14ポンド)という記録があり,また,明治19年の同大会では砲丸投(15ポンド),明治20年の同大会では砲丸投(14.5ポンド)と,重さも一定していなかったようである。
今日のような16ポンドの砲丸で行われるようになったのは,1865年のオックスフォード対ケンブリッジ大学対抗戦で用いられてからである。 しかし,日本でこの重さの砲丸を使用するようになったのは,ずっとあとになってからである。砲丸投の日本記録の変遷をみると,大正2年(1913)辰野保(東大)9m00,第1回全国陸上大会,という記録が残ってはいるものの,まだ16ポンドの重さに定着していたわげではなかったようである。大正14年(1925)発行された「運動競技全書」(内務省編纂)の中の「砲丸投」の項で,次のように書かれている。「國際オリンピック競技會では,16卦度(我が約2貫目)の鐵丸を,直徑7呎の圓の牛から投げる規定になってをり,又極東選手権競技會では12卦度の砲丸を投げる事になってをります。これは今目我が國の青年諸君の麗力では矢張り12卦度のが適當でありませう。此の投げ方は隻腕を以て投げるので,兩手で支えて投げてはいけない事になってをります。」(野口源三郎記)このように,当時の日本人の体カでは記録をみても16ポンドという砲丸の重さに十分対応できるものではなかったようである。 日本と世界の記録を比較してみると,日本記録(9m00)として最初に載っている1913年頃世界はすでに15m台の時代であり,日本がこの15m台に到達したのが昭和35年(1960)である。そして,その頃世界はもう19m台に突入していた。日本と世界ではこのように4mもの差があり,その差は現代縮まっているどころか,5mに開いてしまった。1984年までの日本記録と世界記録は,日本記録が17m16,瓜田(1982)であるのに対し,世界記録は22m22,U.バイヤー,東独(1983)である。これまで述べてきた日本記録と世界記録の差は男子の比較であったが,女子においてはその差が男子以上の6mにも及んでいる。 砲丸投の研究は,記録の変遷が示すように常にいかにしたら砲丸をより遠くまで投げることができるかを考えた結果でもある。そして,その研究は砲丸投選手自身の創意と工夫によってなされてきたともいわれている。砲丸投の研究の目的,最終的な目標は,砲丸という重量物をいかにしたら1㎝でも遠くへ投げることができるかに向けられる。 本研究では,動作解析コンピュータシステムを用い,熟練者と未熟練者の投動作を比較分析し,その相違と視覚情報手段としての応用可能性の検討を通して,初心者の砲丸投の指導に際しての基礎的な手がかりを得ようとするものである。 |
掲載誌名 |
島根大学教育学部紀要. 教育科学
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巻 | 19
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開始ページ | 43
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終了ページ | 55
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ISSN | 0287251X
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発行日 | 1985-12-25
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NCID | AN0010792X
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出版者 | 島根大学教育学部
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出版者別表記 | The Faculty of Education Shimane University
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資料タイプ |
紀要論文
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部局 |
教育学部
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他の一覧 |