我々が古典を読むのは、なぜであろうか。人それぞれ答えはちがうであろうし、一個人にあっても、時と場合によって、多種多様な効用(インテレスト)を古典に求めていることであろう。その効用のうちの有力なものの一つとして、筆者はいにしえの歴史環境や風俗を知る喜びをあげる。すなわち、自民族のものにせよ、他民族のものにせよ、古典が書かれた当時のありさまが、いかに現在自分が生きる時代と異なっていたかを発見し感嘆する面白さである。この一種の異文化体験の快楽、それだけでも古典を読む効用として十分であると筆者は信ずるが、現代と違う価値観をもった過去の状態を知ることは、ひるがえって、現代の真のありようを理解する手助けにもなるのである。
一方、いにしえと今の世の相違を乗り越えて、人類普遍に該当する真理に、古典のえりすぐった表現を通じて、触れる(もしくは触れたと感じられる)ことも、古典読解の醍醐味である。しかし、今その快楽に浸ることを自制して、仔細に快楽の内奥を検討してみると、筆者は疑問を感ぜざるを得ない。例えば、現代の見かけの複雑さに眩惑された我々が、古代人の素朴さ、そしてそれに対応する端的で原初的な表現に接することによって、真理に目覚めるという言説を、半ばは信じるが、半ばは果して然るかの感をもつ。古代人も、現代とはちがった、もしくは現代にも通ずる複雑さを有していたであろうことを見出すのは、どの分野の古典でも同様ではないか。
かかる理窟にもかかわらず、我々は相い変わらず、古典の中に普遍的な真理を感得するのである、そのメカニズムを説明する力は筆者にはない。筆者としては、いったんは、古典がその時代において、同時代人にもたらしたであろう効用をあたうかぎり把握し感情移入する。その後、その段階にのみとどまらず、現代において、超時代的に古典がもたらす効用を考える。かかる態度を持して、古典研究を進めたいと考えている。
元末の小詩人の作品を読むことが、単に文学史の空白を埋め、元末の時代精神をくまなく知る効用があるというだけでなく、時代を越えた、文学という営み自体の面白さを知る効用があるであろうことを、元朝全土からみれば片田舎である江西行省(その主要な部分は現江西省である)南部に逼塞した小詩人郭�の別集『静思集』を素材にして、強調したいというのが、本稿の意図するところである。