『アンリ・ブリュラールの生涯』の最終章は,デル・リットーもいうように,最も興奮に満ち,また,読む者を感動させる章である。サン=ベルナール峠を越え,いよいよミラノに入城する。のちに自らを「ミラノ人」と称するようになるスタンダールは,では,ミラノでのどのような体験をわれわれに語ってくれるのだろうか。
読者の期待は,しかし,完全に裏切られる。
到着の時点でのマルシアル・ダリュとの出会いの場面が僅かに語られただけで,物語の糸は途切れる。
溢れ出る思い出。その幸福感はとても描き出すことはできない。「題材が語る者の力を超えて」おり,語ることでこの幸福感を台無しにしたくない。
かくして,『アンリ・ブリュラールの生涯』は未完のまま放置される。
この間の推移をあらためて草稿によってたどってみると,校訂版テクストーそこに収められたヴァリアント(そこには,われわれの検討結果とは随分異なる記述も見出されるのだが)も含め−を読むだけでは伝わってこない,スタンダールの執筆への執念と,それを不可能にまでしてしまうほど脳裏に甦る幸福の思い出,それを30年以上も経っていながらも再び感動しながら「生きて」いるスタンダールの「息遣い」を感じることができる。
以下では,上記の問題点を中心に,前稿において検討した問題点を参考にしつつ,草稿をつうじて最終章の執筆過程をたどりながら,そこに見られる特徴を指摘し,スタンダールのエクリチュールの一端をさらに明らかにしてみたい。