前稿では,発達臨床の展開に際して私たちが逢着する2つの問題を論じた。まず第1に,「早期発見,早期治療」という,障害児の療育において自明の真と速断されている常識的な考えを批判的に吟味した。第2に,私たちが障害児たちとの出会いの場において最も基底的なものとして重視したい「通じ合い」という意味での疎通性について,その初期形態およびその展開を論じた。
これらの論考は,小児科医や臨床家あるいは教師や保母などの療育に従事する人たち,また,発達に障害や躓きをもった子どもたちおよびその母親たちとの出合いの中で,筆者が直面した問題の一環として展開されたものであった。しかしながら,筆者自身の考える発達臨床の基本的な枠組がいまだ十分に呈示されていなかったために,前稿での議論は断片的にしか理解されなかったように思う。
そこで本稿では,まず(1).私たちの考える「子ども理解」はどのように展開されるのか,また,それとの関連で,(2).「発達」という概念をどのように考えるか,という点について筆者の基本的な考えを呈示したいと思う。これら(1),(2)の呈示によって,前稿で予告しておいた「発達と文化」あるいは「発達と疎外」という,これまた発達臨床にとっては避けて通れないテーマにも言及することが可能になってこよう。また,私たちの考える「療育」がどのような方向に向かうのかについても,大筋において示唆することができるだろう。
このような論考によって,私たちの考える発達臨床の大枠は漠然とでも呈示できると思う。これは,『自著心理の現象学』(1986年)の第4章において,「発達−現象学的アプローチ」の名の下に示したものの,更なる精緻化の試みであるといってよい。
もちろん,ここでの論考は単なる思弁ではなく,子どもや,子どもを取り巻く大人たちとの様々な出会いの中で,気付かれ,思考へともたらされたものである。
私たちのアプローチを発達論的というのは,臨床の場において,子どもの発達を促進しようと意図するからではなく,むしろ,一人一人の子どもにとって,「発達する」とはどういうことかをラジカルに問うていこうという志向性をもつからである。そして私たちのアプローチが現象学的だというのは,一人の子どもの前に立つ私たちを深くかつまた解きほぐしがたく捉えている自明なものとしての常識と,その常識からもたらされる種々の憶断とを可能なかぎり明るみに出しながら,一方では当の子どもの生活世界を克明に描き出し,他方ではその子の存在の意味を様々な角度から捉えて,合わせて「子ども理解」を少しでも煮つめていこうとするからである。
私たちのこのアプローチはようやくその端緒についたばかりであり,未熟であることは否めない。けれども,本論の後半部において,一人の登校拒否児とその両親及びその担任教師との出会いを私たちの基本的枠組に添って記述してみることによって,私たちのアプローチを今少し具体的に呈示してみたいと思う。