タイトルヨミ | モトオリ ノリナガ ノ フジワラノ タメカネ ヒョウ キンセイ ニ オケル フジワラノ タメカネ ヒョウ
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ファイル | |
言語 |
日本語
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著者 |
小原 幹雄
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内容記述(抄録等) | 本稿は近世に於ける藤原為兼評の一部である。
近世に於ける藤原為兼評は、近世に於いて、藤原為兼がどのように評せられていたか、即ちどのように受け取られ、理解されていたかを見てみたいのがその目的である。 近世に於けるその受け取り方の態度の一般的特色を見ると、為兼の論評に当っては、為兼だけを評するのではなくて、彼の撰になる「玉葉集」を離れることがでぎず、また同じ京極派の「風雅集」を別にすることばできなかった。為兼をも両集をも区別せず、同一の見方で論じているのである。為兼を論ずることは、「玉葉集」・「風雅集」を論ずることであり、「玉葉集」・「風雅集」を評することは、為兼を評することであった。 そういうわけであるので、為兼評と題したのであるが、為兼について述べながらも、おのずから.「玉葉集」評にも「風雅集」評にもわたらねばならないのは、止むを得ないのである。 本居宣長の場合も、その例外ではない。 |
掲載誌名 |
島根大学論集. 人文科学
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巻 | 11
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開始ページ | 69
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終了ページ | 81
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ISSN | 04886518
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発行日 | 1962-03-01
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NCID | AN00108183
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出版者 | 島根大学
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出版者別表記 | Shimane University
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資料タイプ |
紀要論文
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部局 |
法文学部
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