言語は人種的変化によっては何等左右されることはない。左右されるとすれはそれは生れつきの発声形態の差異にあることは既に音声学の世界では定説である。この定説を基にしてみるとき,現在我が日本での欧米語熱および欧米語による歌唱熱はまさに大変なものがあるが,しかし一方欧米では日本語熱はかなりあったにしても日本語で以てする歌唱熱は盛んであるとはお世辞にも云えないのが現状である。無論学問の世界では如何ともしがたい或要素はたしかに存在はしようが,それは別として声楽を担当する側からは改めてその原因の何たるかを深く研究されてしかるべき時期に既に到達しているように思う。既に欧米人でも喋る場合には日本人も顔負けするほどの流麗な喋り方をする人を数多くみかける現在、何故に日本語による歌曲だけが(本紙による歌曲とは芸術歌曲を示す)あまり歌われないであろうか位は,心ある人なら誰しもが不思議に思うところであろう。だがよく考えてみるとわれわれ日本人にしてもあまり歌っていないのが正直のところであるが,本家本元の日本で以てしても歌われないとなると,これはまことに深刻な問題である。何故なら過去の歴史からしてわれわれ日本人は外来の文化(例え言葉でさえも)を同化し,それを日本人のものとして改めて発展育成して来たことから考え併すと,自国語で以てした歌唱文化の発達はこれは当然のことであるはずである。それが成されていないとなれば果して何処にその原因なるものが潜存するかを考えねはならぬ必要にせまられる。そこでは日本語のもつ特質とその歌唱法のこの二面が併せ研究されねばなるまい。しかも現在の歌唱法が欧米語と極めて密接な関係にある以上,これが欧米語との対比によって研究されねばならぬことも理の当然である。したがって本文ではそれらの相互対比を基として,いささか論を述べたいと思うわけである。