タイトルヨミ | ペドロ ・ アルモドバル 『 ホウヨウ ノ カケラ 』 ノ セイシン ブンセキテキ カイシャク : エイゾウ オ ミル コト 、 エイゾウ ニ フレル コト
|
日本語以外のタイトル | A Psychoanalytic Interpretation of Pedro Almodóvar’s Broken Embraces (Los abrazos rotos, 2009): Seeing a Screen and Touching a Screen
|
ファイル | |
言語 |
日本語
|
属性 |
研究ノート
|
著者 | |
内容記述(抄録等) | 本稿で明らかにするのは、『抱擁のかけら』において映像が触覚的なものとして描かれていることが、本作の精神分析的なテーマと深く関わっていることである。
本作で映像の触覚性が示唆される場面は、かつて映画監督で現在は盲目の脚本家のマテオが、愛したレナとの最後のキスの映像に「触れる」ところである。それは彼を盲目にし、レナを死に至らせた事故の記録映像であった(失明とレナの死は去勢を意味する)。もちろんマテオはそれを見ることができない。しかし彼が映像を愛撫するとき、映像は彼をレナに引き合わせる。なぜなら映像において見る者と対象は光で繋がっているからである。だが、映像が遅れてやってきた光である以上、この出会いは出会い損ねに終わるしかない。 一方、エルネストの視覚はサディスティックな「覗き」である。彼はその視線でレナを監視・支配しようと、息子のジュニアにメイキングビデオを撮影させる。だが、そのような思惑に反し、エルネストはスクリーンに映し出されるレナとマテオが愛し合う姿を見て愕然とする。それは母と父が愛し合う姿(原光景)を前にしてそれに釘付けになっている子のようである。このように本作では、二人の登場人物によって描かれる異なる発達段階の子と母との関係が、映像の視覚性と触覚性によって表現されているのである。 |
主題 | ペドロ・アルモドバル
『抱擁のかけら』
精神分析
触覚
『明るい部屋』
|
掲載誌名 |
島大言語文化 : 島根大学法文学部紀要. 言語文化学科編
|
巻 | 56
|
開始ページ | 83
|
終了ページ | 101
|
ISSN | 13423533
|
発行日 | 2024-03-31
|
NCID | AA11147571
|
DOI(SelfDOI) | |
出版者 | 島根大学法文学部
|
出版者別表記 | Faculty of Law and Literature, Shimane University
|
資料タイプ |
紀要論文
|
ファイル形式 |
PDF
|
著者版/出版社版 |
出版社版
|
部局 |
法文学部
|
他の一覧 |