相も変わらず、筆者は「スタンダールの文体」のありようについて、そして「文体」そのものの概念の明確化を目指して試行錯誤を繰り返している。その中でも、「文体」というものをどのようにとらえるかに関してこれまでの経過をふりかえれば、結局はシュピッツァー流の、あるいはもっと遡って、ビュッフォン流の定義から一歩も抜け出ていないことに我ながら愕然とさせられる。つまり、どのような細かい、個別的な「文体論的」分析を試みても、作品のもつ総合的なタイナミクスの把握にはまだ到ってはいないという認識を抱かざるをえないのである。つねに立ち返るところは、様々な「文体事象」を産み出す、作家の「活動する精神」にほかならない。作品をいわゆる構造主義的な観点から「閉じた空間」とみなす立場を採らない筆者にとって、冒頭で引き合いに出した「真の文体とは精神にほかならない」というプレヴォーの言葉も、半世紀も前のものとはいえわれわれにとってはやはり一つの揺るぎなき道標であり続けている。
もちろん、いわゆる「文は人なり」という表現に含まれる概念の暖昧さ、と言うか、その射程の広範さ、また、リファテールを初めとするシュピッツァーの文体理論に対する様々な反駁の存在など、「文体論」そのものが色々な問題を抱え、消長と変貌を繰り返していることも承知している。
言うまでもなく、われわれがまずもって向かうべき対象である、「何らかの形で完成された」テクスト、そしてそこに見られる「言語表現の特徴」以外に確実なものは何もない。「テクスト」についての考え方をめぐる近年の生成論的考察の成果を目の当たりにしながらも、また筆者自らもそうしたアプローチを試みながらも、作家の「文体」とはどのように定義付けできるものなのか、また、個々の作品のもつ、例えば「読む者を感動させる力」という深く「内容」に関わる要素を「文体」という側面から解明することが可能なのか、あるいは逆に、そうしたものを解明する「切り口」としての「文体」を措定し得るのか……、いまだ道半ばである。本稿は、こうした筆者の直面している問題の解決に向けて、新たな一歩を踏み出そうという試みである。