島根大学論集. 人文科学

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島根大学論集. 人文科学 11
1962-03-01 発行

仮名草子における教訓性と文芸性 : 「浮世物語」の構成をめぐって

鈴木 亨
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内容記述(抄録等)
仮名草子は極めて多様な作品群を含んでいて、その性格を一概に捉える事は困難であるが、近世初期の啓蒙思潮が広汎に浸透している為に、一般にその啓蒙性、教訓性、実用性等が強く印象づけられるようである。文学史研究の対象として仮名草子を扱う場合に、完全な実用書までを含む仮名草子の、どの範囲までを研究対象に含めるべぎかは、なかなか難しい問題であるが、その場合の判定基準となるべき文芸性に至っては、その最も文芸的なるものに於てさえ、必ずしも顕著であるとは云い難い場合がある。そのような作品においても、主軸は教訓性、実用性、啓蒙性にあるかの如くであり、文芸性はそれらの目的に奉仕する為に動員された非本質的要素の如くである。それらの教訓や実用的知識は、高尚もしくは無味であり、必ずしも読者の俗耳に入り易いものではない。それを和らげ砕いて、読者に興味深く受け取らせる為の文芸的装いであって、作者の本意はそこにはないかのようである。仮名草子の多くの作品が、その文学的性格においてあいまいな立場に立つのもその為である。
しかしそれは現代の我々の感覚である。その意欲に満ちた啓蒙的要素に対して、文芸的要素が余りにも未熟、素朴、単純であるために、そのような錯覚に陥っているのかも知れないのである。当時にも文芸に対する要求はあった筈であり、仮名草子がそういう要求に応えなかった筈はない。現代の文学観から見て、如何に未熟で不備なものであろうとも、そこに文芸的要素の痕跡でも見られる限りは、我々は彼らの文芸的な努力を無視する事はできない。それは彼らの思想をともかくも文学的形象に定着したものだからである。
仮名草子を時代精神研究の素材として扱うならば、印象強烈なその思想性にのみ注目しても良い。しかし文学として研究するのならば、如何に印象稀薄であろうとも、その文芸性の検討からはいって行くのが至当であろうと思う。
私はここにそういう試みの一端として「浮世物語」(寛文初年刊・浅井了意作)をとりあげ、その文芸性が如何にその教訓性思想性と絡み合って一篇を構成しているかを、分析調査してみようと思う。