ほぼ赤道直下,アフリカ東岸沖合はるかにアザニアという島国がある,ことになっている。マダガスカル島に似た,南北に伸びる大きな島である。
奴隷の息子から身を起こした四分の三黒人のテムラス大帝による建国以来,アザニア帝国では一歩ずつ「野蛮」が退き「進歩」の種子が根づいた。インド人やアルメニア人、やがてはヨーロッパ人も利権を求めてやって来た。大帝が没し,娘が女帝となったが,彼女の死によりその息子Sethがヨーロッパから戻り帝位を継いだところで,セスの父アラビア人のセイド公が反乱を起こした。
ここから,Black Mischief(1932)の物語が始まる。動揺と裏切り,イギリス人将軍に率いられたセス軍の勝利(セイド公を支援したフランス公使の扼腕),奥地の首都への皇帝凱旋,セスと同窓であったBasil Sealの近代化省大臣就任、矢つぎばやのセスの改革,前女帝の兄アコンの救出,革命,セスの敗北,アコシの急死,裏切り者の死,バジルの恋人食い,そしてこれらの事件を通じて,陰謀家のフランス公使と無能な英国公使,それに現実的なアルメニア人ユークーミアン氏の動きが描かれる。戯画の輸郭,筋書きともに極めて明快,巧みで手ごたえのはっきりした作品である。
ところで,Black Mischiefは1931−2年のウォーのアフリカ旅行の産物であり,その旅行について,旅行記Remote People(1932)から多くの部分が,When the Going Was Good(1946)中’A Coronation in 1930’と’Globe-Trotting in 1930−31’に再録されていて,容易に読むことができる。それに近年,ウォーの日記と書簡が公刊され,彼の旅行その他,作品の背景の事実をより直接に知ることができるようになった。本稿で私は,Black Mischief制作に関係するウォーの動きを跡づけるとともに,作品について気づくところを述べたい。