南北戦争後,資本主義社会が急速に発展してきたアメリカでは,文学の世界でも時代を反映してローマン主義が後退し,リアリズムが拾頭し始めた。アメリカ文学におけるこの新しい動きは,マーク・トゥエインなどの地方色作家によって起こされ、ウィリアム・ディーン・ハウエルズの文学理論を正面に立てた先導により,あるいは,ヘンリー・ジェームズの実践により発展していった。そして1890年代に入るとスティーヴン・クレィンの『街の女マギー』Maggie;A Girl of the Streets(1893)や,フランク・ノリスの『マクティーグ』Mc Teagu(1899)などに見られるような白然主義的な作品を生み出す処まで到達した。ごのような流れは,今世紀に入り,セオドア・ドライサーの出現によりひとつの頂点に達し,一世代先に発見していたヨーロッパの自然主義文学と肩を並べるほどの成長を遂げ,その後も根強くアメリカ小説の中に浸透し,シャーウッド・アンダーソン,ジェイムズ・T・ファレル,ジョン・ドス・パソス,リチャード・ライト,あるいは,ノーマン・メーラーなどを含む作家たちにさまざまな形で影響を及ぼしている。
自然主義作家に共通なものは,彼らの基本的な物の見方である。即ち、彼らはいわゆる「決定論」を表に出し,この世にはありとあらゆる処に人間を規制する何らかの力が存在すると信じている。従って,彼らは人間は自分自身の運命を意志の力で動かすことは全く不可能であると考える点では「悲観論者」でもある。自然主義者は,この世の中には人間の力ではコントロールできないある力が働いており,人間はその犠牲になっていると見做している。
このような自然主義の流れが,ジェームズ・T・ファレルにはどのような形で現われているであろうか。本論では,彼のシカゴ物語といわれる七篇の作品の中から『スタッズ・ロニガン』三部作を取り出して検討し,彼の自然主義の特色を吟味することにより,アメリカ自然主義の発展の一形態を探ってみようと思う。