War is warとかBoys are boysといった"X be X"の形をとる表現は、Either John will come or he won'tやIf he does it,he dose itのような文的卜一トロジー(sentential tautology)と区別して、名詞的卜一トロジー(nominal tautology)と呼ばれる。このような英語の名詞的トートロジーは、日本語に訳そうとすると「XはXだ」となるのがふつうである。
このように名詞的トートロジーに関する限り、英語と日本語の間には並行性が見られる。しかし、このような並行性が言語の壁を越え、どの言語にも共通して見られるかと言えば、残念ながらそうではない。例えば、Wierzbicka(1987)によれば、Boys are boysを直訳的にLes garcons sont les garconsとフランス語に翻訳しても、Knaben sind Knabenとドイツ語に翻訳しても、その表現は意味を成さない。また、韓国語では、もっともな理由もなく泣いている人を見て、その人を嘲笑する意味で英語のYou are youにあたるNoto no idaという表現を用いることがあるが、英語ではそのような場合、例えはIt's just like you―crying for no reason at allのような全く異なる言い方をしなければならない(Wierzbicka 1987 : 98)。
このようなWierzbickaの指摘を見てくると、完全に対応しているように思われる英語の"X be X"と日本語の「XはXだ」も、場合によってはその並行性が崩れることがあるのではないかという推測にたどりつく。本稿では、そのような点も含め、英語と日本語の名詞的トートロジーについて考察する。具体的には、まず1章で、日英語の名詞的トートロジーにどのような形があるかを簡単に見たあと、2章では、英語の"X be X"と日本語の「XはXだ」が談話の中で同一の機能を果たしていることを確認する。そして3章では、そうであるにも関わらず、その並行性が崩れる場合があることを述べ、そこにはどのような要因が絡んでいるのか考察する。