王羲之は、いうまでもなく東晋時代の書家である。すでに開花していた篆隷の他に、行草の書美は、彼によってきわめ尽された感がある。彼への高い評価はすでに六朝時代にみられたが、わけても唐時代に入ってその極に達した。
そのころ、日本は唐に倣って律令国家の完成を目指していたから、いきおい文化万般も唐風に傾き、そこにいわゆる白鳳と天平文化の形成をみたが、書もまたその埒外ではなく、初唐より盛唐にかけての晋唐風の反映が認められるのである。とりわけ王羲之の書法の受容にはずいぶん積極的であったようにおもわれる。ところでわが国においては王羲之の書風が、この時代に続く三筆時代はもとより、国風化の象徴ともされる仮名の書美の創出時代においても基底的役割を果たし、その後も形骸化したものとはいえ、江戸時代のお家流にそのかげをとどめている。近くは明治になって北魏の峻険なものを追い求めることが時代の支配的傾向となっても、同時に羲之の蘭亭叙や十七帖は学ばれて今日に及んでいるのである。
他方今日の書界は極めて多彩ではあるが、中にはこれが東洋独自の書美かと疑われるものもあるので、今を照す為にも古を稽えるべく、ここにその出発点として、今日まで大きな影響カをもった王羲之の書法が、天平時代−天平を中心とする奈良時代−においては、どのように享受されていたかについて考えてみたい。天平時代は白鳳時代に比して正倉院古文書など書道史的史料に一段と恵まれているが、未だその殆どの実物に接する機会をもたないので、最近公刊された数種の複製本によって検討したことをことわっておく。