J.S.バッハの作品については古今のバッハ研究者によって詳細に原典が究明され,その演奏の解釈や楽譜等の文献は多くの国で出版されている。マタイ受難曲についても同様である。ここで述べようとしていることは,バッハの生涯と作品との関わりでもなければ,他の受難曲との比較でもない。テキストの内容の変化と音楽形式のアナリーゼでもなければ,曲間の調性の不自然さをとりあげようとも思わない。至高の作品と云われるこのマタイ受難曲のなかで演じなければならないエヴァンゲリストの役割,つまり今日的な意味でエヴァンゲリストのレチタチーフを如何に取り扱うべきかの一考察である。何故エヴァンゲリストのレチタチーフが問題になるのかは,その役が受難劇の進行を担う唯一の案内人であり受難曲演奏の成否を握る重要な役割であること,また過去においては歌いやすくするため書き替えねばならなかったほど難曲であることの理由からである。
一般的にレチタチーフは本来その言葉が持っているリズムによって作られている。つまり言葉が話されるようにリズムと旋律が与えられている。しかしそれが楽譜に記譜され音符になると,音符は言葉に関係なくひとり歩き始める要素がある。音のフレーズと言葉のフレーズが異なる場合それは問題となる。H・ヴォルフの歌曲やR・シューマンの多くの歌曲のように言葉のリズムやアクセントを考慮に入れて付曲されたものには上述の要素はない。
声楽演奏者にとって器楽演奏者との最も大きな違いは言葉の存在の有無である。音の流れの変化だけでなく,言葉の流れの変化も加味しながら音作りをしていかなければならない。音と言葉の二つの要素が存在する声楽作品の中でアリアが音の要素が最も強い形式でありレチタチーフはその対極に存在する。その中でもエヴァンゲリストの課せられた役割と前述のように歌い易くするために書き替えまでしたことを合わせて考えると,J.S.バッハのマタイ受難曲のこの役を歌うことは,まず神学的な背景を把握した上に,技術的には鮮明な発音とテキストを劾果的に理解できるような文章のアナリーゼによるフレージンク,そしてそれを表現できる発声技法が求められる。この小論は発音や発声技法には触れず,実際演奏するときにエヴァンゲリストの文章を如何にフレージングするか,もっと具体的に述べるならば劇の進行を聴衆に理解させるだけでなく,エヴァンゲリストを演奏する演奏者の主張をも表現するべく「間」を何処につくるべきかを述べたものである。