本稿で明らかにするのは、『抱擁のかけら』において映像が触覚的なものとして描かれていることが、本作の精神分析的なテーマと深く関わっていることである。
本作で映像の触覚性が示唆される場面は、かつて映画監督で現在は盲目の脚本家のマテオが、愛したレナとの最後のキスの映像に「触れる」ところである。それは彼を盲目にし、レナを死に至らせた事故の記録映像であった(失明とレナの死は去勢を意味する)。もちろんマテオはそれを見ることができない。しかし彼が映像を愛撫するとき、映像は彼をレナに引き合わせる。なぜなら映像において見る者と対象は光で繋がっているからである。だが、映像が遅れてやってきた光である以上、この出会いは出会い損ねに終わるしかない。
一方、エルネストの視覚はサディスティックな「覗き」である。彼はその視線でレナを監視・支配しようと、息子のジュニアにメイキングビデオを撮影させる。だが、そのような思惑に反し、エルネストはスクリーンに映し出されるレナとマテオが愛し合う姿を見て愕然とする。それは母と父が愛し合う姿(原光景)を前にしてそれに釘付けになっている子のようである。このように本作では、二人の登場人物によって描かれる異なる発達段階の子と母との関係が、映像の視覚性と触覚性によって表現されているのである。