子どもはこの世で生きていくために,多くのことを身に付けていくことを求められている。例えば,基本的生活習慣といわれるようなごく基礎的なものからかなり高度な知的かつ技能的な力まで,さらには優しい心や思いやりなど情操や感性といわれるものなど,あげればきりがない。このようないろいろな力を子どもに与え,育てていく営みが教育である。もちろん,このような営みは学校でのみ為されているわけではない。子どもが生まれて少なくとも数年の間は,家庭がそして親が教育の主役であるが,子どもの成長発達とともに,相対的に学校と教師の役割が増大していく。
しかし,学校で教師が子どもに教えることができるものなどは,じつは,その子どもの人間としての健康な成長発達にとってはごく僅かのことでしかないのではあるまいか。子どもが大人に成るということは,けっして,その他大勢の中の一人になるということではない。大人に成る,あるいは大人である条件は,独立した(自立した),個性を持った,掛けがえのない一人の人間になるということであろう。しかし,いまの(これまでの)学校教育を反省的に見てみると,どうもその意味では,子どもを大人にするという機能を失っているように思える。では,学校とはいったい何なのか,ということになってしまうが,一つ明らかなことは,「学校こそすへて(=学歴主義,学校信仰)」という,いわぱ古い価値観にしがみついていては,もはや十分な子育てはできないであろうということである。
もちろん,今も昔も,学校には学校としての必要かつ重要な役割があることは確かであり,それを明らかにするには、とりわけ明治期以降の学校制度史的視点からの時系列的分析が有効であろう。とはいえ,そのあたりのこと(学校論)については別の機会に譲るとして,本稿では,現在の学校教育の問題点,それはおもに教育活動の前提条件となっている学力観というかたちで顕在化してきているが,を明らかにし,ここで明らかにされた諸問題との関係において,またそれを補う方法としての「遊びの原理」について考えることにしたい。