Taichiro Nakai is one of ronos who had great influences on agriculture in Meiji Era. In this paper I tried to analyze his cropping system of rice.
It consisted of the followmg techniques:
(l)the land improvement by dressing soil;
(2)the "Hogashirasen"(a method of seed production);
(3)the "Kansuisen"(a seed pretreatment and selection), after that the seed selection with salt solution;
(4)the thin sowing in nursery;
(5)the sparse plnanting in paddy field;
(6)the cultivation by "Taichi-Guruma";
(7)the careful water control; and
(8)the careful insect pest control. The above techniques were labor intensive. Therefore his cropping system of rice was suitable for a family farm.
明治政府は,西洋の技術,文化を導入し,急速に近代化をはかろうとした.農業政策もまた,西洋の大農経営を導入し,日本の農業を急速に変革しようとするものであった しかし,日本の実情を無視した西洋式大農経営の導入は失敗に終わる.そこで政府は在来農法を見直し農業の実際を熟知する老農を重用するようになる.明治十年代から二十年代にかけて中村直三,奈良専二,林遠里,船津伝次平等の老農が,日本の農業の改良のために活躍をする.中井太一郎も,また,そのような老農の一人であった.
中井太一郎は,天保元(1830)年伯耆国久米郡小鴨村(現在の鳥取県倉吉市)に生まれた.青壮年期には,農業のかたわら,「御改正方」,中庄屋,大庄屋等の役を務めた.太一郎が「稲作改良ノコトニ注意」するようになったのは,「安政年度ノ頃」であった.そして,明治十一(1878)年ころより本格的に稲作改良に励むようになる.明治十八年には鳥取県勧業諮問会員となり,明治二十年には鳥取県立農学校の実業教師となる.また,地方からの招きに応じて巡回講話や実地指導を行ったり,著書を農商務省に献納するなど,自らの改良法の普及に努めた。明治二十五年には,水田中耕除草器「太一車」を考案し,特許を得ている.
これまで,中井太一郎は「太一車」の考案者としてのみ評価されてきた.彼の唱えた稲作技術について言及されることはほとんどなかった.これは,「太一車」の中耕除草器としての効能があまりにも大きかったためである.しかし,太一郎は老農として,講演や巡回指導あるいはその著書を通して各地の稲作農民に影響を与えている.したがって,中井太一郎が唱えた稲作技術を考察することは,明治期の稲作技術体系すなわち明治農法の実態を解明することにつながるはずである.中井太一郎の稲作技術にっいては,わずかに斎藤之男が「除草器の考案−中井太一郎」において言及しているのみである.本稿では,この先行研究をふまえながら,老農として中井太一郎がどのような稲作技術を唱導していたのかを明らかにすることにしたい。