「われわれは、国家は不可避的に死減するというにとどめて、この過程が長期にわたること、それが共産主義の高い段階の発展する速度にかかっていることを強調し、国家の死滅する期日や死滅する具体的な形態の問題は、まったく未解決のままにしておいてさしつかえない。なぜなら、これらの問題を解決する材料がないからである」と、レーニンは「国家と革命」(一九一七)の中で書いている。それから四十余年を経て、いまやソ連邦の発展は、「国家死減の期日」はともかくとして、問題を解決する材料がないゆえに、レーニンが未考察のままにした「国家死減の具体的形態」を日程にのぼせ、党大会でこの問題をとり上げる段階に到達した。本稿は、マルクスとエンゲルスにおける「国家死滅」理論の発生から、レーニンによるその展開、スターリンによるその限定、フルシチョフ指導下のソ連邦におけるその実践を考察するものである。