新撰字鏡は僧昌住の撰になるとされ、今日、三巻本と十二巻本とがある。三巻本には古写本が伝わっていないが、享和三年(一八〇三)正月の刊本、群書類従所収本などによってその大体を知ることができる。十二巻本には、天治元年(一一二四)、法隆寺の学僧達が手分けして書写した古写本が現在している(宮内庁書陵部蔵)。この序文によると、初め玄応の一切経音義を主資料として三巻の字書に編成したが(寛平四年〈八九二〉夏)、さらに、切韻、玉篇、および、私記類の記事等を加えて十二巻に増補改編したとあり、その成立は昌泰年間(八九八−九〇一)の末か延喜の初めの頃かと推定されている。
昌住の伝は未詳だが、南都法相宗系の学僧とみられる。天治本の書写が法隆寺学僧達の手で行われ、また、新撰字鏡の一部が抜き書きされている五島美術館蔵弥勒上生経疏(後述)が南部系寺院に関係するところから、平安時代中期以後、新撰字鏡は南都の僧呂の間に伝承され書写されていたと説かれる。
新撰字鏡の享受史上、これはこれで認めてよいであろう。だが、これはその享受史上の一つの流れに過ぎないようである。管見するに、今一つ、院政期(十二世紀)から鎌倉時代一以後)の真言宗寺院における伝承、利用も、その享受史上の重要な位置を占めるものとみうけられる。
以下、本稿では、この墓言宗寺院における新撰字鏡の利用ということを中心に考察してみたい。