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タイトルヨミ
タイイク ニオケル ウンドウ ギジュツ ノ モンダイ
日本語以外のタイトル
The Problems of Motor Skill in Physical Education
ファイル
言語
日本語
著者
永井 康宏
内容記述(抄録等)
体育と言う言葉が生れも体育が教育の一領域として教育の中に取入れられたのは近世になつてからであると言われる。然し乍ら体育的な事実一身体活動によつて何等かの人間形成を図ろうとした事実たとえそれが単なる強い身体や体力であつたにせよ一は人類の古い時代から在つたものと考えられている。
 文化人類学によれば如何なる時代如何なる場所においても人間は直接生命を維持するための活動あるいはそれに通じる職業活動の他に遊びと呼ばれる活動現在の言葉で言えば、レクレーション活動を行つたと言うこと及びこのようなレクレーション活動の中で身体活動が大きな分野を占めていたことが明かである。従つて人間は実にホモ・フアーベル、ホモ・サピェンスであると同時にホモ・ルーデンスでもあると言わなければならない。
 体育はこのようなレクレーションとしての身体活動、別の言葉で言えば遊戯やスポーツの人間生活の中における機能や価値を経験的に自覚することから、そのような機能を意図して身体活動を行うに至つた所にその萌芽を認めることが出来るのである。 そしてこのような身体活動実践の直接的な契機になるものは常に運動の技能あるいは技術であつて、技術を無視した運動実践は考えられず運動は常に運動技術の表現によるいろいろな欲求の満足が実践の動因であつたと言つても過言ではないであろう。 従つて「身体活動を通しての教育である」と言われる体育も、言い換れば運動技術の学習を中心とした教育であると言うことが出来、体育の内容として態度や健康安全等があげられていてもこれらは実際には運動技術との関連において考えられなければならなくなる。
 このゆえにスポーツ及体育の中核となる運動技術はそれが重要な意味をもつが故に一暦その性格と体育の全体構造における位置づけを明確にしておかないといろいろな混乱が生ずる元になると思われる。例えば技術万能と言う考え方を醸成し、その結果体育を指導する教師が単一スポーツ技術の指導を即体育と考えたり、スポーツやその他の運動を行う者が公衆の面前でやる丈の専門的修練をつんだ人達に及ばないと直ぐ観客席に坐つて自らやろうとしなかつたり、又むしろ人聞自身のために在るべき運動技術によつてかえつて人間が使われるようになり、技術的機能の発達によつて人間的な機能が偏頗となつたり、人間性を破壊し一たりするような懸念がないでもないからである。特に未成年者、自覚の未熟な者においてそのような危懼が多分に感じられるのであるg
 従つて私はここで技術を中心にして体育とスポーツとの関係を明かにし、体育に在つては技術は如何なる意味をもち、又如何に扱はれるべきかを述べて見たいと思うのである。
掲載誌名
島根大学論集. 教育科学
10
開始ページ
11
終了ページ
26
発行日
1961-03-20
NCID
AN00108117
出版者
島根大学
出版者別表記
Shimane University
資料タイプ
紀要論文
ファイル形式
PDF
著者版/出版社版
出版社版
部局
教育学部
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