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タイトルヨミ
スイデン タンサク チタイ ニ オケル サンギョウ クミアイ ノ ケイエイ ヒカワムラ ヒサギ チク ニ ツイテ ヒカワムラ チョウサ トクシュウ
日本語以外のタイトル
Management of a Farmer's Co-operative in the Rice Crop Area : The Case in Hisagi Area,Hikawa Village (The Special Issue of Survey on Hikawa Village)
ファイル
a005005h005.pdf 2.67 MB ( 限定公開 )
言語
日本語
著者
勝部 邦夫
内容記述(抄録等)
 我々は前稿〔島根大学論集(社会科学)第4号〕において斐川村久木地区での明治中期以降の経済的発展をあとづけ、大正十年産業組合が成立する経緯をみてきた。
 明治末期耕作農民による産業組合設立の企図が挫折したあと十余年を経て今度は地主層のイニシアティブによって、いわば天下りの産業組合が成立したことについてはそれだけの理由があった。第一次大戦を契機として日本資本主義の独占が本格化し、またそれが半封建的な地主制と不可分離に結びついていた限り、資本家=地主の連帯に対応して労農連帯の経済的基盤も成熟していた。大正七年の米騒動が単なる農民運動ではなく、広はんな勤労者、消費者が参加したことは理由のないことではなかった。そして米騒動につづく労働争議や小作争議の激化が全体としての社会経済体制を揺がしはじめた時、高い小作地率を維持して強固な地主制を誇った斐川地方でも地主層は変化即応の手を前もって打つ必要を意識した。地主、自作、小作ぱかりか非農業者をも打って一丸とした全村的組織をもつ産業組合が、村政を担当する地主層のリーダーシップの下に成立したことは右の如くして打たれた手の一つに他ならない。勿論、日本の産業組合が一面において農政の末端をになう一機関たる限り、上からの働らきかや勧奨もあったであろうし、他面それが農村の協同組合である限り、地主や農民の経済的要請もあったに違いないが、この地域での産業組合成立の契機としてはかかる経済的なものよりも日本資本主義の発展に伴う矛盾がかもし出した右の社会的あるいは政治的なものをより重視すべきであろうと考える。その意昧で久木産業組合は農民的欲求に基くよりも地主的欲求と地主的基盤において成立したといって差支ない。農地改革前、斐川の四大地主のうち三人を占める旧出東村の産業組合成立が大正八年、残る一地主のいた旧久木村の産業組合成立が大正十年であって、強固な地主制の下、水田単作を特徴とした斐川地域の中でも最も斐川的な右の両地区の産組成立が産業組合法施行後ほぽ二十年を経て甚だおそく、あたかも一般的危機のはじまりと時期をひとしくする点にも我々は上述の推論の一つの根拠を見出すものである。
 さて右の如くにして成立した久木村産業組合はその後いかに経営されて、いったであろうか。産業組合は一つの経営体であるからその経営は経済的に行われざるをえず、それをめぐる利害関係はかなり複雑であって、地主的利害ばかりでなく、量的に最大の構成員たる耕作農民の利害が顧慮されねぱならず、独占資本とのからみあいもある。かかる複雑な関係の下での組合経営を貫く原理は何であったか。また基本的生産関係たる地主制を背景として産業組合を成立せしめた政治的契機はその後の経営において如何に位置づられたか。我々はそうした観点から久木村産業組合の経営を水田単作地帯における典型として分析してみたいと思う。
掲載誌名
島根大学論集. 社会科学
5
開始ページ
53
終了ページ
72
ISSN
04886534
発行日
1959-02-28
NCID
AN00108161
出版者
島根大学
出版者別表記
Shimane University
資料タイプ
紀要論文
ファイル形式
PDF
著者版/出版社版
出版社版
部局
法文学部
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