ID | 2441 |
タイトルヨミ | シマネダイガク シキチ ヤクシヤマ コフン イブツ ニツイテ
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ファイル | |
言語 |
日本語
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著者 |
山本 淸
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内容記述(抄録等) | ここに取り上げる古墳出土遺物は島根大学文理学部歴史学研究室に保存しているものである。それは元来旧制松江高等学校敷地から出土したために、遺物は同校において保管されていたのであるが、同校を母体として島根大学が生れることとなり、したがつて、島根大学文理学部歴史学研究室が、それを引続ぐこととなつたものである。
ここに、この遺物を取り上げたのは、この古墳と遺物に関し、早くその一部が紹介されたことがあるけれども明瞭にその全貌が報告されていない、のみならず実は考古学上注意すべき資料であると考えるからである。即ちその遺物の中には、土師器と須恵器が含まれて居り、それはこの地方古墳時代土器の編年的研究――それは両者共に、形質の地方差があるので、特に地方別に行う必要がある。――の上に貴重な役割を演ずる資料であり、またその内部構造も大体推察出来るので、この地方の古墳の内部構造の変遷を考える上にも有益な資料である。 この遺物を出した古墳は、今は完全に破壌され、当時の事情を記憶する人等には辛うじてわずかな目じるしの凹所にその痕跡を留めているにすぎぬけれども、幸にして発掘当時の目撃者の数名が現存するので当時のことを概略想像出来るのである。すなわち、松江市菅田町福井隆太郎氏、島根大学男子学生寮勤務の後藤重右衛門氏の談を綜合するに、旧制松江高等学校が西川津町に設立され、ここで授業を開始してから後、すなわち大正十一年の夏頃、学生寮の北方の丘陵の土取り工事が行われたためにこの古墳が発見されたのであつて、当時松江高等学校物理学担当教官であつた武田雄三氏はこの事を知つて、熱心に遺物の採集に当つたが、工事人夫がなかなか指示にしたがわぬので、私費を投じて人夫をねぎらう等、随分苦心して探集されたとのことであり、採集遺物は最初、物理教室に運ばれたので、後藤氏はその運搬を手伝つたというのである。 尚この古墳は島根県史第四巻には薬師山古墳の名で呼んでいるが、福井氏の説明によれば、音ここに胸薬師と呼ばれた堂があつたと聞いて居るとのことであるから、県史の呼称を変えることなく用いることとする。 |
掲載誌名 |
島根大学論集. 人文科学
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巻 | 5
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開始ページ | 27
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終了ページ | 39
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ISSN | 04886518
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発行日 | 1955-02-15
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NCID | AN00108183
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出版者 | 島根大学
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出版者別表記 | Shimane University
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資料タイプ |
紀要論文
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部局 |
法文学部
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他の一覧 |